1年ぶりくらいに、神戸は海運堂で教室を開きました。

これまでは、一応「ボイストレーニング」と題していたのですが、
特に教えたりトレーニングをほとんどしないのにボイトレと名乗るのは心苦しく、
今回は潔く「声あそび」と名乗ることにしました。
(しかしこの数日後に、同じ「こえあそび」と題するワークショップの存在を知る……)

最近考えていたこと。
「感覚的に教えられるとわからない」とよく言われること。
それは確かにそうで、感覚は誰かと共有することができません。
どこまでいっても感覚はその人固有のものです。

よく起こりがちなのは、
教師側の感覚が教師固有のものであることや、教師が色んな経験を経て条件が整った結果として起こった感覚であることをわからずに、普遍的な正しさであるように生徒に伝えてしまい、
一方で、教師と全く違う体と経験を持っている生徒は、伝えられた言葉によって全然違う方向へ向かってしまうこと。

もし教師と同じ現象が起きていても、生徒は教師とは全然違う感覚が生まれる可能性があります。

だから、歌のレッスンでは、色んな言葉を使いながら、教師側の感覚と、生徒側の感覚の重なるポイントを探していきます。
そのために、医学的な知識や、理論が重視されることもあります。

でも、ですよ。
そういった「わかりにくい問題」と「わかるための言葉探し」は、
そもそも「わからない」はずのその人個人の感覚を、無理くり共有しようとするために起こることです。
そして、そのために、言葉にはまりきらない、カオスで曖昧な部分をこぼれ落としてしまうかもしれない。
しかも共通の言葉が見つかって想像できたところで、相手が本当に感じている感覚とは全く別物としてしか感じられません。

だから、声を育てていくにあたって他人との共通事項を探すのは、
パフォーマンスしたり、別の誰かとコミュニケーションを取ることを目的にするにはもちろん必要だけれども、
その前に自分の感覚の中で、感覚から感覚へ広げて、味わっていくことも必要なのではないかと思いました。

長くなりました。

というわけで、今回の「声あそび」では、「物語を十全に生きる」をテーマとし、
言い換えますと「他人の気持ちはわからない」というレッスンを行いました。

普段は、
「思いを伝えるために声を使う。」
「じゃあどうやって思いを伝えるために言葉や声を活かしきることができるだろうか。」
と考えてレッスン内容を練ってますが、これも覆されます。
別に理解なんかしなくてもええやん。無理やで。というのが最近の考えです。

この日は、声のプロフィール作りをしました。
体を動かしながら出てくる色んな声を観察する。
その中から、好きな声を見つける。
そして、その好きな声を徹底的に観察する。
その好きな声の色、重さ、大きさ、動くスピード、性格、好きな食べ物、などなどを考えてみる。
そしてみんなの前で発表して、その声の紹介もしてみる。

それぞれの人が、ある種の声から色んなことをイメージして言葉に表しますが、
発表を聞いても「へーそうなんや」としか言いようがない。

でも、それでいいんやと思います。
「どう役に立つか」は見出せないですけど、
でも、共感したり、何かを理解し合えた時よりもずっと、その人の姿がそのまま感じられるようで心地いいです。

ただ、たとえ自分の中だけのものであっても、言葉に変換した時点でこぼれ落ちるものがあると思うので、
感覚を言語化してみる、という作業は「自分の中のカオスな感覚を味わう」という主旨と矛盾しているようにも思うのですが、
やっぱ人間、観察するためにも言葉使わないとどうしようもないよね。
と今は妥協して開き直っています。なんかいい案あれば教えてください。