日蓮宗総本山頂妙寺の写真

会場となったお寺

京都の日蓮宗青年会のお招きで、若手僧侶のみなさんへ「日々の声のケア」というテーマでボイトレ研修をさせていただきました°˖☆◝(⁰▿⁰)◜☆˖°
 
実行委員の方がネットサーフィンから私のホームページに辿り着き、3年前に私が節談説教研究会で講義させて頂いたことを読んで「僧侶に適したボイトレが受けられるかも」とご依頼くださった嬉しいご縁です。
 
当初は2月に行う予定でしたがコロナで延期になり、窓を開け放せる時期を待って、ようやくの開催でした。

扉全開の御堂も清々しく、楽しい時間でした〜。

痛めがちな声のケア

実践を交えた3時間の講習となりました。

始めは理屈の講義で、声の仕組みの概説を1時間。いつもの話です。
 
それから、声のエクササイズを実践しました。
 
僧侶の方々は、日々お勤めやお参りで声を酷使されていて、声に悩まれる方がたくさんいらっしゃいます。
今回も、すでに痛めてしまっている方も多くいらっしゃったので、声の能力を広げていく練習よりも、マイナスをゼロに近付けていくための日々のケアや、クールダウン・ウォームアップ方法を中心にお伝えしました。

僧侶界の発声事情

最後は志願兵を募って2人の方へ公開個人レッスンでした。

「指導者に薄っぺらいと言われたので治したい」と、先月僧籍を得たばかりのピチピチの青年が出ていらっしゃり、声明を一節。
そしたらご参加いただいている中堅のお坊さんが「特に薄っぺらさは感じない」とおっしゃられ。
 
その指導者がどんな価値観で「薄っぺらい」と判断したのか、
「薄っぺらい」と思われがちな要素は何なのか、みんなで考える場面もあっておもろかったです。

先達の美学的ジャッジを、どういう行為で対処したらいいのかわからない、というのはクラシックでもありがちで、
 
「なんて伝統モノあるある」
 
と思いました。笑

声が出ない時にやること

自分で良い方に向かっていけたり、探せる人だったらいいのだけど、そこでむやみに頑張ってしまって声が枯れてしまう人が本当に多いです。
 
声が通らなかったり、チェンジで声がひっくり返りそうになったり、という風に上手く声がコントロールできない時は、
今使ってる筋肉の組み合わせでは望む声が出ないということだから、違う筋肉を働かせてバランスを変える必要があります。

でもここで多くの人がやってしまいがちなのが、息を強く吹き込んだり、力を込めたり、という風に、バランスは変えずに出力を上げることです。
出力を上げた時、確かにそれまでより大きい声は出ますが、疲れるし、息を強く吹き込むから長いフレーズが歌えなくなるし、声帯も簡単に痛めてしまいます。

「お腹から声を出して」ともよく言われますが、「どのようにお腹を使って声にまで影響を及ぼさせるか」がわかっていないと、ただお腹に力が入っているだけで声のバランスまでは変わりません。

伝統あるある「一回枯らす」

求めるように声が出ない人に対して、「一回枯らしてこい」と指導されることもあります。

声を枯らした結果、大きい声は身についた上にダミ声が混じるようになり、それが「」や「深み」として良い方に作用することもたしかにあります。
でも良い結果は何も得られずに、ただただ「文章一行読むだけで苦しい」「ガラガラすぎて電話で一言も聞き取ってもらえない」という状態が10年続いてる、みたいな悲劇を生むこともあります。
今日もそんな方が何名かいらっしゃいました。

音楽だったらこういう場合に「僕向いてへんわ」って音楽自体辞めてしまったり、別の楽器に転向する人が多いのでしょうけど、
お坊さんは声は大事だけど本質ではないから、苦しい・痛いと思いながらも続けてしまうんですね。

今思い出しましたが、私も学生時代、練習する時は声帯が乾くから5分おきに水を飲み、それでも1時間も練習したら声がガサガサになる、という状態でした。
本当に困っていて、先生に相談したところ、「一度ポリープできるぐらい努力したらいい」というような内容のことを言われたことがあります。(^^;;

前述の通り、「枯らしてこい」というアドバイスも、額面通りに”枯らす”ことで「深みや味」といった美学的なメリットを得られる場合もありますから、全く無意味というわけではありません。
でも、目の前の人の問題が「枯らす」ことで本当に解決するのか
どんなやり方でも「枯らし」さえすればいいのか
そもそもどんな原因によってその問題が現れているのか
「枯らす」という言葉にも、「問題」とされている現象にも奥行きがあります。

ボイストレーナーの責任

学習者がその奥行きを考えたり、自分でいい方法を探すことも勉強、という側面ももちろんありますが、
指導者のアドバイスにより、10年以上も発声に困難を抱えることになる可能性を考慮しておく必要があります。
自分や特定の人にとっては効果のあった稽古法であっても、別の人にとっては害しかない場合もあること。
美学的に良いことと、機能面で良いことを分けて考えること。
トレーナーは人様の声に口を出すことの責任を深く考える必要があると、強く思います。