※あやしいはなし。
 
体を整えることで声に感情を乗せられるようになった。
とこれまで話していたけれども、
でも「乗”せる”」って、操作してるみたいなのがなんか体感と違うな?と思っていて。
 
「体が表現の邪魔をしないようにする。」
「感情を体で表せられるために、体が動けるようにしておく。」
というのはもちろん正しいのだけど、それだけだと足りない。
 
「心と体はつながっている」とはよく言えど、
感情表現するために、体を、操作する「道具」として使ったり、
ただ、お互いに影響されたりするような、
別々のところにあるものが、橋渡しされて繋がってるわけではない。
 
感情は体の状態そのもの。
と、先日の東京でレッスンを受けていて気づいた。
 
体と感情は同調して、同時に現れるもの。
その場・その瞬間の状況に応じて、体の進むべき方向性を見つけていくけれども、
体の方向性と同時に、現れるべき感情が自ずと現れる。
「必然的な表現」って、これのことなんかな?
 
こうして、体と感情がひとくくりになった状態を感じられていると、
「腕をこう動かそう」「こう表現しよう」みたいな部分的な認識ではなく、
存在すべてを、まるまるそのまま味わうことができる。
 
自分の感情にも、身体感覚にも、リアリティがある。
 
頭が先走ってる表面的な怒りや喜びとは違う。
私の中にはこんなに感情が沸き立っていたんだ、と初めて気付いた。
 
自分の動き方も、人の見え方も、距離感の感じ方も、全部変わる。
 
体が「扱う」ものではなくなる。
 
 
ただ、今の所、自分の中ではこうやけど、
だからって「表現力のある人」にカテゴリが移ったわけではないし、
歌う時みたいに、その場に存在しない作品の中の感情を、
第三者に伝わらせるためにはどう変わってくるかまた試行錯誤が必要なのと、
 
合気道の時の「気持ちを透明に」は何をしていて何が違うんやろう、というのも検証したい。